楠田祐 HR時評Vol.3【「辞めない理由」を共に育てる1on1へ】

更新日: 2026-07-28

株式会社アジャイルHR取締役の楠田祐によるHR時評。第3弾は、退職者の「辞める理由」を追う人事から、社員が「この会社で働き続ける理由」を共に育てる人事へー1on1の本質とこれからの人事に求められる発想の転換について解説します。

 

「辞める理由」ではなく、「辞めない理由」を問うという発想の転換─ 古屋星斗著『あの若手はどうして辞めないのか』を読んで ─

 

人事は、若手が会社を辞める理由ばかりを知りたがります。なぜ辞めたのか。上司に問題があったのか。処遇に不満があったのか。仕事にやりがいを感じられなかったのか。そして、退職理由を分析し、その原因を取り除こうとします。

しかし、本当に退職者が語る「辞める理由」を、そのまま信じてよいのでしょうか。

 

この問題を考えるとき、私はルソーの『エミール』に出てくる「事実の嘘」と「権利の嘘」という区別を思い出します。事実の嘘とは、実際に起きたことを偽ることです。一方、権利の嘘とは、語られた事実そのものは間違っていなくても、本来その相手に語るべきことを語らず、関係性の中で真実を隠すことを指します。

退職者が語る「キャリアアップしたいから」「友人に誘われたから」「新しい仕事に挑戦したいから」という理由は、事実としては嘘ではないのかもしれません。しかし、それが退職を決めた本当の理由のすべてとは限りません。

上司には言えなかった失望、成長機会への不満、職場での孤立感、将来への不安など、本当の理由は別のところにあることも少なくありません。

退職面談で語られる理由は、会社と円満に別れるための「社会的に受け入れやすい説明」である場合も多いものです。人事がそれを額面どおりに受け取り、対策を講じても、本質的な課題には届きません。

 

本書の優れた点は、この問いを見事に反転させたことです。

「若手は、なぜ辞めるのか」ではなく、「転職という選択肢があるにもかかわらず、なぜこの会社を辞めないのか」と問い直しています。

これはシンプルでありながら、極めて本質的な発想の転換です。

 

これまで企業は、会社に残っている人に理由を聞く必要はないと考えてきました。しかし、在職していることと、納得して働いていることは同じではありません。会社に残っていても、積極的に働いている人もいれば、辞める理由がないから残っている人、転職活動が面倒だから残っている人もいます。

本書は、「静かな退職」だけでなく、「静かな定着」という状態にも光を当てています。会社には残っている。しかし、働き続ける理由を十分に持てていない。この状態を可視化した点は、本書の大きな貢献でしょう。

だからこそ、人事や上司は、「辞めますか」ではなく、「あなたは、なぜこの会社で働き続けているのですか」と問いかける必要があります。

ただし、この問いを投げかければ、本音が返ってくるわけではありません。

 

現在、多くの企業で実施されている1on1は、本来、部下のキャリアを支援するための対話でした。ところが現実には、目標管理の進捗確認や業務報告の場となり、互いに建前を交換する時間になっていることも少なくありません。

「将来どうしたいのか」「今の仕事に満足しているか」と尋ねても、部下は模範解答を返します。

重要なのは、本音を無理に聞き出すことではありません。部下自身が、「なぜ私はこの会社で働き続けているのだろう」と考え、自分の言葉で語れるような対話をつくることです。

そのためには、上司にも新しい対話の技術が求められます。

「辞めないと言わせる技術」ではありません。部下が安心して「辞めない理由」を語り、その理由を上司とともに積み重ねていく技術です。

本書で提示される12の「辞めない理由」は、若手を引き留めるための施策リストではありません。社員と会社との接点を確認し、対話を深めるためのフレームワークなのです。

 

さらに、本書を読みながら、私は現在の情報環境についても考えさせられました。

近年、若手を取り巻く情報は劇的に変化しています。SNS広告、動画、転職サイト、セミナータイトル、電車の中吊り広告まで、「もっと自分らしく働ける会社がある」「転職すれば人生が変わる」というメッセージが、毎日のように流れ込んできます。

その多くは、成功事例だけを切り取るチェリーピッキングです。転職して成功した人だけが紹介され、転職後に苦労した人や、今の会社で成長した人の物語はほとんど語られません。

タイムパフォーマンスを重視する世代ほど、その一瞬のキャッチコピーや短い動画に影響を受けやすくなります。

「自分も辞めたほうがいいのではないか。」

そんな思いが、ほんの数秒で心をよぎることもあるでしょう。

アルゴリズムによってパーソナライズされた「隣の芝生は青い」というノイズは、若者のキャリアに対するレジリエンス(復元力)を静かに削ぎ落としていきます。彼らは「今の場所で泥臭く咲くこと」の価値を教わる前に、「ここではないどこか」へワープするショートカットばかりを見せられているのです。

 

だから企業は、「辞める理由」を減らすだけでは足りません。外から流れ込む魅力的なメッセージに対して、それでも「この会社で働き続けたい」と思える理由を、社員自身が語れる状態をつくることが重要になります。

古屋氏が提唱する「辞めない理由」を積み重ねるという発想は、そのための極めて実践的なアプローチです。

 

人事KPIもまた、見直す時期に来ています。離職率だけを追いかけるのではなく、社員が「辞めない理由」をどれだけ持ち、それを自分の言葉で語れるか。その「理由の厚み」こそが、これからの組織の健全性を測る指標になるのではないでしょうか。

近年、人事関連の書籍には、特定のサービスや研修、システムの導入へ読者を誘導する、いわばプロバイダー発の内容に終始しているものも少なくありません。その中で本書は、緻密なデータ分析と現地調査をもとに、これまで誰も正面から問わなかったテーマに挑んでいます。

 

これからの人事に求められるのは、出口(退職ゲート)に厳重なセンサーを設置することではありません。入り口から出口に至るまでの道のりに、どれだけ多くの「この会社にいる意味」という道標を、社員と共に打ち立てられるかです。

一冊を読み終えて感じたのは、「辞める理由」を追い続ける人事から、「辞めない理由」を育てる人事への転換こそが、これからの時代に求められるということです。

シンクタンクだからこそ書けた第一級の研究成果であり、多くの人事担当者、そして1on1を行うすべての管理職に推薦したい一冊です。

 

2026年7月吉日 筆

株式会社アジャイルHR

取締役 楠田 祐