楠田祐 HR時評Vol.2【ムーンショットを超えろ!前例なき時代を生き抜く「マースショットHR」】

更新日: 2026-07-10

株式会社アジャイルHR取締役の楠田祐によるHR時評。第2弾は、従来の枠組みを超え、組織と個人のあり方を根底から変革する「マースショットHR」の必要性を提唱します。

 

近年、アメリカでは再び火星開発への挑戦が加速しています。アメリカ航空宇宙局(NASA)は2030年代の有人火星探査を視野に入れ、民間企業ではイーロン・マスク率いるSpaceXが「人類を火星へ移住させる」という壮大な構想を掲げています。20世紀最大の挑戦がアポロ計画による月面着陸だったとすれば、21世紀最大の挑戦は火星到達と言えるでしょう。火星への道には前例がありません。正解もありません。成功の保証もありません。しかし、人類はそこへ挑戦しようとしています。

 

一方、日本政府も「ムーンショット型研究開発制度」を推進しています。破壊的イノベーションの創出を目指すこの言葉は、1960年代のアポロ計画に由来します。当時、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は「10年以内に人類を月に送る」と宣言しました。成功する保証も、十分な技術もありませんでしたが、挑戦の末に1969年、人類は月面に到達しました。

 

ここで重要なのは、アポロ計画は「達成できそうな目標」ではなく、「達成できるかどうかわからない目標」を掲げたということです。私はこの考え方こそ、これからの企業経営や人事に必要だと思っています。ところが日本企業は2000年前後、成果主義の導入によって逆方向へ進んでしまったように見えます。成果主義そのものが悪いのではありません。問題は運用です。評価が処遇と強く結びついた結果、多くの社員は達成可能性の高い目標を設定するようになりました。

 

本来なら20%の成長を目指せるかもしれないのに、確実に評価を得るために5%の成長目標を設定する。新規事業へ挑戦するより、既存事業の改善を選択する。前例のない取り組みより、前年踏襲を選択する。結果として、組織全体が「失敗しないこと」を学習するようになりました。これはアポロ計画やムーンショットの思想とは正反対です。挑戦よりも安全。変革よりも改善。未来よりも現在。こうして多くの企業が「達成率100%」を競う組織になっていきました。

 

その間、アメリカでは巨大なイノベーション企業が誕生しました。GAFAMやテスラ、エヌビディアといったビッグテックの時価総額は、日本のトップ企業を大きく引き離しています。彼らは既存ルールの中で競争したのではなく、ルールそのものを変えました。検索のルール、携帯電話の概念、広告や流通の仕組みを変え、そして今は生成AIによって知的労働そのものを変えようとしています。

 

文化人類学者・システム論研究者の Gregory Bateson は学習を階層で説明しました。「学習Ⅰ」は既存ルールの中で上達することです。PDCAや改善活動の多くはここに位置づけられます。一方、「学習Ⅱ」はルールそのものを問い直すことです。「なぜこの制度なのか」「なぜこのビジネスモデルなのか」という前提そのものを見直す学習です。イノベーションは学習Ⅰからではなく、学習Ⅱから生まれます。


そして、その学習Ⅱを組織的に促進する仕組みとして注目されているのがOKR(Objectives and Key Results)です。Googleなどの成長を支えたこの手法の特徴は、達成率100%を前提とせず、60〜70%程度しか達成できないような挑戦的目標を設定することにあります。到達できるかどうかわからないプロセスの中で、新しい発想や学習を生み出すことに本質があります。

 

私はOKRを導入する場合、従来のMBO(目標管理制度)と完全に分離して運用することが不可欠だと考えています。MBOは評価や処遇のための制度であり、OKRは挑戦のための制度です。両者を混同すると、社員は再び安全な目標を設定し始めます。評価の公平性にこだわり、失敗を許容できない組織のままでは、成果主義が陥った問題を繰り返してしまいます。

 

MBOは評価のため、OKRは挑戦のため、この役割分担が重要です。


さらに未来を見据えると、通信技術は2030年代には6Gへ、2040年代には7Gへと進化し、宇宙空間とのリアルタイム通信も視野に入ってきます。しかし、地球と火星の間には、光の速さでも数分から数十分の「通信遅延(光速の壁)」が発生します。つまり、地球からのリモート指示、すなわち「中央集権的な管理」は宇宙の現実の前には通用しないのです。現地で自律的に判断し、適応していく人材と組織が不可欠になります。

 

だからこそ、いま人事に必要なのは、ムーンショットではなく「マースショット」です。なぜなら月にはすでに到達したからです。しかし火星にはまだ誰も到達していません。地図も、前例も、正解もありません。

 

さらに言えば、マースショットとは単に目標を高くすること(学習Ⅱ)に留まりません。ベイトソンが言う「学習Ⅲ」、すなわち「会社と個人の関係性」や「働くことの意味」そのものを根底から変容させるパラダイムシフトの領域です。

 

これからの時代に求められるのは、過去の成功体験を再現する人材ではなく、未来を創る人材です。経験したことのない課題に挑戦できる人。失敗から学べる人。正解のない問いを考え続けられる人。環境変化に応じて自ら進化できる「変化適応型(アダプティブ)人材」です。既存の型に自分をはめ込む「適合(Fit)」の時代は終わりました。

 

改善から変革へ。適合から適応へ。管理から挑戦へ。そして、ムーンショットからマースショットへ。

 

まずは、自社の目標設定シートから「確実に達成できる5%の目標」を破り捨てることから始めましょう。未完成でもいい、正解がなくてもいい。まずは打席に立ち、バットを振る勇気を持つことです。


敗戦から高度経済成長を実現した日本人は、かつて世界を驚かせました。その原動力は学び続ける力でした。日本企業が再び世界を驚かせる日は、過去の成功体験の再現ではなく、未来への大胆な挑戦から始まるのではないでしょうか。

 

2026年7月吉日 筆

株式会社アジャイルHR

取締役 楠田 祐