楠田祐 特別寄稿【40年ぶりの労働法改正が問いかけるもの ~エンプロイジャーニーとエンゲージメントの視点から考える人的資本経営~】

更新日: 2026-06-19

株式会社アジャイルHR取締役の楠田祐による特別寄稿。40年ぶりの大規模な労働法改正の議論の本質を、「人的資本経営」の観点から解説します。

 

 

2026年通常国会への法案提出は見送られましたが、現在も労働政策審議会を中心に、40年ぶりとも言われる大規模な労働法改正の議論が続いています。今回の見直しは、1987年の労働基準法改正以来の抜本的な制度改革と位置付けられています。

 

背景には、少子高齢化による労働力不足、働き方の多様化、デジタル化の進展、リモートワークの定着、さらには人生100年時代における70歳就業社会の到来があります。議論されている主な論点としては、14日連続勤務の禁止、勤務間インターバル(終業から次の始業まで11時間程度)の義務化、「つながらない権利(Right to Disconnect)」の導入、裁量労働制の見直し、テレワーク時代に対応した労働時間管理、副業兼業を前提とした制度整備、高齢者や多様な働き方への対応などがあります。

 

いずれも高度経済成長期に整備された「労働時間管理中心」の制度から、知識労働者が主体となる時代にふさわしい制度へ移行しようとする試みです。これらの議論を俯瞰すると、共通するキーワードは「労働時間の管理」から「働く人の持続可能性」への転換と言えるでしょう。

 

従来の労働法は、長時間労働を抑制し労働者を保護することに重点が置かれていました。しかし今後は、健康、キャリア、自律性、多様性を尊重しながら、長く活躍できる環境をいかに整備するかが問われることになります。人事部門にとっては法改正対応として捉えがちですが、経営の視点から見ると、これは単なるコンプライアンスの問題ではありません。人的資本経営の観点からは、従業員のエンゲージメントや定着率、さらには企業価値そのものに影響を与える経営課題として捉える必要があります。

 

これまで日本企業は、長時間労働や社員の献身性によって競争力を維持してきた側面がありました。しかし人口減少が進み、人材獲得競争が激化する中で、従来型の労働投入モデルは限界を迎えています。これからの競争優位は、「どれだけ人を採用できるか」ではなく、「採用した人材が長く活躍し続けるか」に移行していきます。 そこで重要になるのがエンプロイジャーニーの考え方です。

 

近年、多くの企業がエンゲージメントサーベイを実施していますが、エンゲージメントは結果であり、その背景には従業員が企業との関係の中で経験してきた数多くの体験があります。従業員から見れば、認知、応募、選考、内定、プレオンボーディング、入社、配属、成長、昇進、異動、管理職登用、シニア活躍、退職・アルムナイまでが一本の線でつながっています。人事部門は採用、育成、配置、評価、リテンションを機能別に分けて管理していますが、従業員にとっては一つの連続した体験です。

 

そのため、現在のエンゲージメントは、入社後だけではなく、内定時の不安、入社時の期待、配属時の戸惑い、上司との関係、成長実感、キャリア機会など、過去の体験の積み重ねによって形成されます。つまり、エンプロイジャーニーが原因であり、エンゲージメントは結果なのです。 特に新卒や若手社員は、期待→不安→混乱→適応→成長という心理的な変化を経験します。プレオンボーディングが不十分であれば期待は不安に変わり、配属後の支援が不足すれば不安は混乱へと変わります。

 

一方で、適切な支援や対話が行われれば、混乱は適応へ、適応は成長へとつながります。離職率の高い企業と定着率の高い企業の差は、この初期キャリアの体験設計にあると言っても過言ではありません。

 

今回の労働法改正で議論されている勤務間インターバル制度は、その象徴的な施策の一つです。十分な休息時間を確保することで、疲労の蓄積やメンタル不調を予防し、生産性の維持向上につながります。しかし本質的な価値はそれだけではありません。従業員が「会社は自分の健康や生活を大切に考えている」と感じることによって、組織への信頼感や心理的安全性が高まり、エンゲージメント向上につながる可能性があります。

 

また、「つながらない権利」の考え方は、リモートワークが普及した現代において重要なテーマです。勤務時間外のメールやチャットへの対応が常態化すると、従業員は常に仕事とつながった状態となり、心身の回復が難しくなります。企業が意識的に境界線を設けることで、結果として集中力や創造性の向上につながることも期待されています。さらに、副業・兼業や多様な働き方への対応は、従業員のキャリア自律を後押しするものです。従来のように会社がキャリアを一方的に設計する時代から、個人が主体的にキャリアを形成し、企業がそれを支援する時代へと変化しています。

 

これはまさに昭和型人事から令和型人事への転換そのものと言えるでしょう。

 

勤務間インターバル、多様な働き方、キャリア自律支援といった施策は、単なる制度ではなく、従業員体験そのものを変える仕組みなのです。 エンゲージメント向上は離職率低下にもつながります。離職率の低下は採用コスト削減だけでなく、組織知の蓄積や顧客との関係維持、管理職の負担軽減にも寄与します。

 

近年、大企業においても一人採用するために数十万円から百万円以上の採用コストが発生するケースは珍しくありません。加えて、入社後の教育投資や現場での育成工数を考慮すると、一人の離職による損失は想像以上に大きなものになります。特に若年層においては、「働きやすさ」だけでなく、「働き続けたいと思える環境」が企業選択の重要な基準になっています。

 

人的資本経営の時代において重要なのは、「何時間働いたか」ではなく、「どのような価値を創出したか」です。昭和型人事が労働時間管理を中心に発展してきたのに対し、令和型人事は従業員の持続可能な活躍を支援し、その結果として企業価値を高めることが求められています。40年ぶりの労働法改正は、単なる制度変更ではありません。それは、日本企業に対して「労働時間を管理する人事」から「従業員体験を設計する人事」への転換を問いかけているようにも見えます。

 

人的資本経営のKPIは、サーベイスコアや離職率そのものではなく、従業員がエンプロイジャーニーの各段階で成長実感と信頼感を持ちながら長期にわたり価値創造を続けられる状態を実現できているかどうかにあるのではないでしょうか。

 

2026年6月19日 筆

株式会社アジャイルHR

取締役 楠田 祐